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せつなるいのり

2023年12月24日(クリスマス)礼拝メッセージ要旨 『切なる祈り』  マタイによる福音書 26章 36〜46節(マタイ講解84) 山田 雅人

▼「イエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」(ルカ21:37)−オリーブ山にあるオリーブ畑、それが当該箇所の舞台である、ヘブライ語で「油を搾る場所」という意味のゲッセマネである。イエスは弟子たちと最後の晩餐を終えたあとにここに戻り、十字架刑を前にして祈った後、逮捕される。
▼自分の危機がいよいよ間近に迫っていることを感じたイエスは、ここで3回に及ぶ苦しみに満ちた祈りを神に捧げる。これがいかに苦悩に満ちた時であったかは、イエスの心境を表わす言葉によって明らかだ−「そのとき、悲しみもだえ始められた」(37節)、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(38節)−イエスは間違いなく揺らぎ、十字架を避けようとしたのだ。
▼2つの思いの間でイエスは葛藤する−「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」−これは、出来ることなら十字架にかかりたくはない、という叫びに他ならない。一方、イエスにはもう一つの思いもあった−「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」−これは、神に全てを委ねていこうとする祈りである。出来ることなら十字架にかかりたくはないという思いと、もう一方では、神に全てを委ねていこうとする思いの間で葛藤するイエスの横で、3人の弟子たちは「ここを離れず、イエスと共に目を覚ましているよう」求められていたにもかかわらず、眠りに陥っていった。イエスの葛藤は、やがて神の意志への服従へと変わっていく。
▼イエスの祈りに神からの直接の答えはなく、神は終始一貫して全く沈黙している。しかしイエスは、この神の沈黙の中に、「神の奇跡的な介入が意味をなさない」ことを改めて悟ったのだろう。荒れ野の誘惑でイエスが神の力を使うことをせず、ただ神の意志に従うことを選んだように、彼はここでも「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という道を選んだのだ。苦難を回避する道ではなく、苦難に入っていく道を選び取ったイエス、ゲッセマネにおける苦悩を内的にも本当に苦しみ抜いたイエス。このイエスにこそ、神は「然り」を言われたのだ。
▼十字架はイエスにとって予定されていた自明の道ではなく、平然と受け取り得る運命でもなかった。教会ではよく、揺れ動くことは不信仰だと言われたり、信仰者は堅く立って揺れ動かないことこそ大事などと言われる。しかし、人は揺れ動くのだ。我々に求められているのはこの揺れをなくすことではなく、揺れ動く我々を生かし、支え、力を用いて下さる神に自分を委ねていくことだ。それが、「私の願いではなく、御心のままに」というイエスの告白である。




 
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