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もっともちいさいもののひとりに

2023年11月19日 礼拝メッセージ要旨「最も小さい者の一人に」 マタイによる福音書25章31〜46節(マタイ講解79) 山田雅人

▼「最も小さい者の一人にしたのは、私にしたのである」−このイエスの言葉から示唆を受けた人は、あのマザー・テレサやロシアの文豪トルストイをはじめ数知れないだろうが、私が時折奉仕をさせていただいている神戸老人ホームの創設者、寺島信恵さんもその一人である。彼女は日本で初めて養老院を作ったクリスチャンだが、設立の趣旨にこう書かれている−「孤児は永き未来を有するが故に社会の同情に値し、老者は近き未来も有せざるが故に社会的同情を獲るに値せざるならん」。寺島さんは特に、「保護者なき老者のために尽くすことが我が天職にはあらぬかと考え込むようになりました」と記されている。
▼神戸養老院設立(1899・明治32年)と同じ頃、奇しくも同じクリスチャンで、同じ信仰姿勢をもって「回春病院」というハンセン病患者のための病院を設立した(1895・明治28年)、ハンナ・リデルというイギリス人宣教師がいる。私は神学生の時に熊本にある記念館を訪れたが、彼女は1891年に英国国教会の宣教師として来日し、2年後熊本に派遣された時に、桜並木の下にうずくまるハンセン病患者たちを見かける。その悲惨さに心をうたれ、ハンナは「私はこの人たちと一緒に生きていく」と、救済にあたる覚悟を決める。この二人には「神は弱者の、いと小さき者に寄り添う神である」という信仰が息づいていたことを思う。
▼「羊と山羊の譬話」はマタイ福音書独自の物語である。24章から始まる「終末についての説教」(24:3〜26:1)の締めくくりの部分で、「最後の審判」の情景が描かれている。羊飼いが羊と山羊とを見分けるように、全人類は審判者である「人の子」によって2つに分けられ、その判定の基準が「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれた」行為であるというのだ。つまり、飢えている者に食物を与え、渇いた者に水を差し出し、旅人に宿を、裸の者に衣服を、病気の人を見舞い、獄中にいる者を訪問するというような福祉的な行為が、最後の審判において祝福を受ける基準だというのだ。
▼ただし当該箇所は、最後の審判における判定基準を示して「そこに向かって生きなさい」というメッセージではない。重要な点は、右に置かれた者も、左に置かれた者も、その行なった事も行わなかった事も、それがイエスに対するものであったということに気づいていない、という点だ。その行為が神に対する善行であるとか、信仰者として当然の務めであるとかいうことに全く無関係になされている点である。
▼先ず、どこかで貧しい人々の中にイエスがおられるという教えが語られ、その教えに従って貧しい人々に施しをする、というのではない。寺島信恵、ハンナ・リデルと同じように、マザー・テレサも、目の前にいる「誰からも看取られないで死んでいく人々」に出会い、彼らのために何かをしなければならないと思い、それを実践する中で「彼らの中にキリストを見た」という深い宗教経験をしたのだ。「マルチン、明日お前に会いに行くから待っておいで」−靴屋のマルチンにキリストの声が聞こえるが、イエス自身は来なかった。しかし、それまでにマルチンが出会い、助けたのはどんな人たちだったか。そのことを改めて思い返したい。
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