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ひつじがまようたびに

2023年5月21日 礼拝メッセージ要旨『羊が迷う度に』 マタイによる福音書18章10〜14節(マタイ講解55) 山田雅人

▼「福音の中の福音」とも呼ばれる99匹と1匹の羊の譬え話は、マタイ、ルカ、そして正典ではないが「トマスによる福音書」にも記される。マタイは「迷える羊」、ルカは「失われた羊」とし、どちらもイエスの語ったこの話を教会経営のための示唆として解釈している。   
▼マタイの「迷える羊」は教会の中で「罪を犯した者」を意味し(18:15)、そういう者を見捨てずに教会の規律に立ち戻らせるように努力せよ、というのがマタイの解釈だ。ルカの「失われた羊」(15:4以下)は「罪を悔い改める者」であって、百人のうちの一人はそうしてキリスト教徒になるが、悔い改めを必要とせず、キリスト教徒になる意志のない99の「正しい人」は、「天において喜ばれることはない」、というのがルカの解釈である。
▼合理性で動く現実の世で、99を捨てて1を選択することはなく、また、しばしば「止むを得ない」と言う理由で、99のために1が犠牲になり、その場合1は何らかの意味で社会的弱者となるのが常だ。弱い者、少数の者が犠牲にされる社会のあり方に声を上げたのが、イエスがこの譬えを語った真意ではなかったか。
▼イエスが目を注いでいるのが1匹の羊であるならば、目の注がれた1匹の羊の立場になってこの物語を読む時にこそ、目を注いでくれる人の真意が初めて分かるというものだ。我々が無力で、孤独で、何もできずにただ懸命に助けを求めるしかない時、もし他の一切を省みずに「私」に目を留め、捜し、見つけ、手放しで喜ぶ人がいてくれたら、掛け値なく嬉しいことではないだろうか。
▼百匹の羊の中に一匹の失われた羊がいるように、我々一人一人の心の中にも、100のうち1の失われた部分がある。「人はパンのみによって生くるにあらず」−生きるために99の部分はパンだけでまかなえるのかもしれないが、残りの1の部分はパンではまかなえない。そしてその1は決して小さくはなく、むしろ最大のものである場合がある。神はその欠落した1の部分を補うために、徹底して我々のことを捜し続けて下さる方ではないか。
▼一人の命の尊さゆえ、たった一人をも徹底的に捜し求める神の愛は、羊が自分の過ちを認め、謝罪と復帰をすれば受け入れてやる、という愛ではない。我々も、一匹の羊に目を注ぎ、一匹の羊に目が注がれ、受け入れ、受け入れられ、共に喜ぶ、そのような共同体として歩みたい。トマス福音書のイエスは、羊の物語をこう語る−「イエスが言った、「御国は百匹の羊を持つ羊飼のようなものである。それらの中の一匹、最大の羊が迷い出た。その人は九十九匹を残しても、それを見つけるまで、一匹を捜した。彼は苦しみの果てに羊に言った、『私は九十九匹以上にお前を愛する』と」。(トマスによる福音書107)
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