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いのりによらなければ

2023年4月30日 礼拝メッセージ要旨「祈りによらなければ」 マタイによる福音書17章14〜20節(マタイ講解52) 山田 雅人

▼イエスは高い山から下りてきたあと、一人の子どもの病気を癒す。最初、イエスはその場におらず、弟子たちが治療に当たったようだが、ダメであった。彼らが子どもの病気を治せなかったのを聞いて、イエスは「なんと信仰のない時代なのか」と嘆き、子どもに取りついていた悪霊を追い出した。どうして弟子たちが治せなかった病気を、イエスは治すことが出来たのか。
▼弟子たちが問うと、イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ並行9:29)と答えている。ということは、力強い言葉と力で霊を叱りつけたから子どもの病気が治ったように見えるが、実はそれ以上に、イエスは懸命に神に「どうかこの子を助けてください」と祈ったのではないだろうか。祈った結果、神から示されたのが、子どもの心に取りついている悪霊を追い出す、ということだったのだろう。反対に、弟子たちは祈ることを忘れていたのではないだろうか。
▼「祈りによらなければ」−イエスが病気の人を治す時の姿勢を一番よく表した言葉である。それは「病気を治す」というよりも、その人を「誠心誠意看病する」という姿勢だ。この人の病気を治すことができるだろうか、と悩む前に、まずその人の所へ飛んで行き、治ろうが治るまいが、その苦しむ人に心から仕える、という姿勢である。弟子たちには、この姿勢も欠けていた。彼らは祈ることを忘れ、病気の子どもに仕えることも忘れ、律法学者と議論を始める始末であった(マルコ9:14)。
▼当該箇所は、前回の「山上の変貌」で高い所に祭り上げられていたイエスが、そこから降りてきて、一人の子どもが苦しんでいる所に、無力な姿でひざまずいて祈る姿を描いている。神のような強い力を使って病気をたちまち治してしまうイエスではなく、無力にひざまいて、ただ神の助けを祈る。そういうことによってしか、この子どもに仕え、この子どもを癒すことはできないのだと訴えるイエスの姿である。
▼祈りとは、我々が自分の力に頼ることの放棄である。自分の弱さを認め、ひたすら神にすがるしかないことを信じることである。祈りによって、不信仰な自分をストレートにさらけ出し、「神様、できれば、憐れんでお助けください」という半分クリスチャンから、「信じます、信仰のない私をお助けください」と告白できる者へと変わる者でありたい。

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