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わがこきょうはてんに

2023年3月12日礼拝メッセージ要旨「我が故郷は天に」 マタイによる福音書13章53〜58節(マタイ講解44) 山田雅人

▼イエスが故郷に里帰りした時の話を、聖書は「宣教の失敗談」として記す−「人々はイエスにつまずいた」、「預言者は自分の故郷では敬われない」。なぜ聖書はイエスが故郷で受け入れられなかったことをわざわざ記しているのだろうか。
▼「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」(マルコ並行6:2)−イエスがナザレの会堂で教えたのは安息日だけだったようである。では他の日はどうしていたか。熱心に伝道して回っていたのだろうか。聖書には何も記されないが、イエスは全てを弟たちに任せて家を飛び出してしまった負い目から、申し訳ない思いで実家に戻り、かつて自分が汗を流した大工、石切りの仕事を手伝ったのではないか。そんなイエスの以前と何ら変わらぬ姿を見ていた地元の人たちが、安息日に会堂でイエスの教えを聞いた時に発した言葉が、54節以下の言葉なのだろう−「驚くような教えだが、いったい彼はいつこんなことを学んだんだろう。でも所詮は我々も昔からよく知っている、あの家の大工じゃないか」。こうして人々はイエスにつまずいた、と記される。
▼人々が犯したつまずきとは、「人間イエスの先に神を見なかった」ことだった。人を色眼鏡で見、その先にある大切なものを見ないで終わってしまうのは、我々も普段からやっている間違いである。預言者、メシアとしての神々しい姿のイエスは認めても、ひたすらに人に仕える下働きの大工としてのイエスは認めない。しかし、実にナザレのイエスとは、故郷を離れた所では誤解され、持ち上げられ、崇め奉られたりもするけれど、ナザレに帰ればやはり下働きの大工として、人々の生活に仕える労働者だったのではないだろうか。
▼「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(57節)−これはイエス独自の言葉でなくギリシャ語のことわざで、里帰りをしたイエスが村の人々に拒否された原因が、地縁、血縁という因習のためであったことを表している。村の共同体を平穏に保とうという意識から、人々はイエスを受け入れなかったのだろう。「あれは大工ではないか」と言って、人間を見て神を見ない愚かさだったのだ。イエスの言葉を聞くよりも、その生い立ちを問題にしたことからくる間違いであった。
▼故郷で拒否されてもイエスは淡々として次の町へと宣教の旅に出られた。それは「我が故郷は天にあり」、という信念からだろう。我々はどうだろうか、地縁、血縁にこだわる時、イエスを拒否することになることがある。心を大きく開いて、古い伝統や、地縁、血縁といった因習にとらわれず、常に自分を新しくしてイエスの教えを素直に受け入れる、そんな開かれた者であり、教会でありたい。
 


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