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かいせつふようのはなし

2023年2月5日 礼拝メッセージ要旨 「解説不要の話」 マタイによる福音書 13章 1〜9節(マタイ講解40) 山田雅人

▼共観福音書に記される「種まきの譬え」は、既に聖書の中に解釈が記されているが、これはイエスの真正の言葉ではなく、初期のキリスト教団が当時の教会の状況に照らして解釈したもの。種は神の言葉であり、道端、石地、茨、良い土地という4種類の土地は人間の心を表す、というこの解釈は、当時の教会がどのような状況であったのかをよく表している。
▼イエスが何を思って群集にこの譬えを語ったのかを考える時、それは信仰につまづく信徒を励ますとか、教会の教勢を広げる、などという目的ではなく、後から解釈を要するような譬えでもなく、群衆にとって極めて分かりやすい、簡潔な、彼らを生かす言葉だったのではないか。この話を最初に聞いた群集に閃いたことは、「種の一部は確かに成長しないことがあるけれども、いつも最終的にはそこに素晴らしい収穫があるではないか」という事実のみだったのではないか。
▼「農夫は多くの種を地に蒔き、多くの苗を植えるけれども、すべての種が良い時に芽生え、すべての苗が根づくわけではないのと同様に、この世にまかれた種のうち、すべての者が救われるというわけではない。」(第四エズラ書)−ここでは種は明らかに人間を意味し、種をまく農夫は「神」である。イエスの譬えに似ているが、イエスが強調するのは「すべての者が救われるわけではない」ではなく、「最終的な実りは大きい」という点だ。
▼神に蒔かれた種である我々の人生は、決して順風満帆ではない。道端のような所に生まれ落ち、石だらけのような所で成長し、茨のような場所に遣わされることもあろう。我々は誰一人として特別なものを持ち合わせない、しかし等しく神によって肯定され、愛され、赦されている「等しい種」として、この世に遣わされる。我々に様々な苦難があるように、我々を遣わした神も、人間の営みを見て、我々以上に虚しさを感じたことが幾度もあったことだろう。イエスの生き様をつぶさに見るとき、そのような神の思いを我々は知らされる。
▼イエスによって、「福音に生かされる」という素晴らしい収穫がこの世にもたらされた。そのイエス自身が「さまざまな苦難にもかかわらず、収穫は大きい」と語るのだ。それゆえ我々も、神に遣わされている者として、荒れた土地を放っておくことなく、イエスの教えを広く人々に語りかけていくことが求められているのだ。収穫はすぐに目に見えるものではないかもしれないし、地上の生があるうちにその成果を本人が見ることがない場合もあろう。しかしその行ないは他者を確実に生かす働きであるゆえに、神はそのことをしかと確認し、我々を大きな収穫の喜びで満たしてくださるのだと信じたい。そのことに希望を持って、福音の種を蒔き続ける者でありたい。






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