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いえすのかぞく

2023年1月29日 礼拝メッセージ要旨 『イエスの家族』  マタイによる福音書 12章 46〜50節(マタイ講解39)山田雅人

▼故郷ガリラヤの民衆の尊厳を回復すべく宣教活動を始めたイエスには、一つの負い目があった。それは、家族を棄てなければならなかったことである。しかもその家族はイエスの活動を理解しようとせず、マルコによる福音書(3:21)によれば、彼を「取り押さえに」やって来る。「我が息子が気が狂った」という噂に駆り立てられて家族が来た時、イエスは彼らと理性的に話すことができなかったのだろう。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」は、イエスが見栄を張って彼らを突き放した言葉だろう。イエスは父ヨセフ亡き後の、母マリアの長い苦労を知っていればこそ、自分の活動ゆえの家族への負い目は力で乗り越えるしかなかったのだろう。
▼この時イエスのもとに集まっていた人々は、この世の型にはまらず、家族の型にはまらず、規範の外に追いやられていた人々だったろう。中には幸せな家族に囲まれて生活していた人もいたであろうが、家族と呼べるものを持たない人、家族関係の破綻してしまった人、あるいは家族から理解されない人にとって「あなたたちこそ私の家族だ」というイエスの言葉は何と開かれた、希望に満ちた言葉であったろうか。
▼そのような人々がイエスのもとでは一人の人間としての尊厳を確認させられ、受け入れられ、命を取り戻していく。イエスはそこに、自分が捨てざるを得なかったこの世の家族とは全く別の、家族というもののありようを見出したのだろう。一人ひとりの個性と尊厳を持つ人間を、世間体とか常識とか人並みといった規範に押し込めようとする家族ではなく、むしろその規範からはみ出てしまった者たちが、そこで本当に尊厳を回復し、個性を認められ、人の交わりを形作り、まことに人として生きていける共同体として、イエスはその人々と共に家族たろうとしたのだ。
▼「神の言葉を聞いて行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」− 神を愛することと隣人を愛することがイエスにとっての律法であり、「神の言葉を聞いて行なう」ことであった。神を愛し、隣人を愛するということを実践する者が、家族を超えた、イエスにとっての兄弟、姉妹、そして母であった。イエスがもたらそうとした、人の個性や尊厳を重んじ、多様性や主体性をこそ育む温床としての「家族」を、家庭においても、教会においても形作る者でありたい。

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