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たって、まんなかにでなさい

2023年1月1日 礼拝メッセージ要旨 『立って、真ん中に出なさい』  マタイによる福音書 12章 9〜21節(マタイ講解35)  山田 雅人

▼12章1節〜14節の安息日論争に於いて、イエスと律法学者やファリサイ派の間には、「人間にとって何が大事なのか」ということに於いて、根本的な違いがあることが明らかになる。律法学者やファリサイ派にとっては、律法という定めを、文字通りその通りに守る順法精神こそが人間が生きる基本だが、イエスは、律法以上に大切なのは神の憐れみであって、人間は神の憐れみによって律法から自由に行動することが出来ると言う。両者は決裂する−「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」(15節)。
▼イエスが会堂に入ると、片手の萎えた人がいた。イエスを訴えようとする人々が「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねる。イエスは片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と呼びかける。ルカの並行箇所(6:6〜)では、「立って、真ん中に出なさい」と呼びかけ、この人は身を起こして立ったとある。この人は寝ている状態で教会にいたのだろう。イエスを訴える口実を見つけようとして、最後にはイエスを殺そうとする律法学者とファリサイ派が、イエスを訴えるための罠として、この手が萎えて寝ている人をわざわざ運び込んだのだろう。イエスはその考えを見抜いた上で、彼らの目の前でこの人を癒す。
▼このイエスの姿について、マタイは第二イザヤの「苦難の僕」の預言が成就したと考えた。18節から21節は、イザヤ書42章1-4節からの引用である。イザヤはここで画期的に新しいメシア像を描き出している。ダビデ王のように力をもって敵を制し、大通りに声を響き渡らせ、神の国の樹立を宣言するメシアとは一線を画し、イザヤの描く新しいメシアは「争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」(19節)、そのような救い主だと言うのだ。そしてそのメシアは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(20節)−つまり、命をおびやかされた人々を守り、支え、そこに寄り添っていくメシアである。本当に地味で、控え目で弱々しくさえ見えるその姿こそが、イザヤが新しく示され、描き出し、待望したメシアであった。マタイはイエスをまさにその預言と待望の成就として認識し、確信したのだろう。
▼法律は人の命を生かすために存在すべきものであり、人の命を脅かし、殺すような法律であってはならぬことをイエスは語った。そのイエスの理想とされる教会の礼拝の姿とは、悲しみや屈辱を抱え、尊厳を顧みられず、弱く小さくされた者が会堂の中心に置かれ、真の人間としての歩みへと押し出されていくような礼拝であろう。他人事だけでなく、我々自身がそんな悲しみや苦しみを抱えた時に、その中心に招かれ、立たされていると実感できるような礼拝をなしていく新しい一年でありたい。



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