聖書と共に
しんこうのとも
2022年11月13日 礼拝メッセージ要旨 『信仰の友』 マタイによる福音書 10章 5〜15節(講解㉘)山田雅人
2022年11月13日 礼拝メッセージ要旨 『信仰の友』
マタイによる福音書 10章 5〜15節(講解㉘)山田雅人
▼休日にプラッと映画を観に行くのが好きです。今は電車に乗りdoor to doorで30〜40分程度で映画館に行けますが、以前勤めていた教会からは、何と徒歩5分程度の所に映画館がありました。ある時携帯電話も忘れ、誰からの連絡も受けなくて良く、サンダル履きで財布だけ持って映画を観に行ったのは実に快適でした。
▼イエスが12弟子を独立させ宣教に派遣したのは、彼らが弟子になってから1年余のことだと言われています。イエスは一人ずつバラバラに派遣したのではなく、マルコの並行箇所によると、「二人ずつ組にして遣わすことにされた」とあり、それは多少なりとも彼らの不安を消してくれたに違いありません。ただし、12人にイエスは「金も袋も下着も履物も杖も持つな」と言われています。文字通り何も持たずの伝道の旅です。旅に出るには不可能なことのように思われますが、イエスが言ったのは「身構えることなく、緊張するのでもなく、普段着の伝道をするように」との勧めだったのかも知れません。
▼「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」−訪問した家が受け入れてくれたら、その家から食べ物と寝る場所を提供してもらうことが暗示されています。また、「旅立つときまで」とどまれということは、一つの家が受け入れてくれたのなら、もう次の土地へ移って良い、ということでしょう。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」−足の埃を払い落とすのはユダヤ人が異邦人の地を去るときに「汚れ」を払い落とす行為です。イエスは弟子たちに「全てを出し切ってそれでも受け入れられなかったら、あとは神に委ねて、淡々と去りなさい」という程度の意味で言ったのでしょう。
▼弟子たちはイエスの言葉通り、受け入れてくれた家には出来るだけ長い間とどまりました。お金も食べ物も持たない二人組は、食と住をお世話になるのですから、偉そうに説教をしたのではないでしょう。彼らは飲み食いを共にしながら、長い間その家の人たちと過ごし、イエスの福音について共に語り、家柄や職業やお金や身分といったこの世の価値観から自由な関係、信仰だけの友となっていったのだと思います。何も持たずとも、ただ信仰と、共にその信仰を分かち合うことの出来る友を増やし、さらに新たな信仰の友との出会いを求めて、旅をしていったのでしょう。
▼こう見てくると、イエスが最初に言った「金も袋も下着も履物も杖も持っていってはならない」と言ったことの真意が見えてくる気がします。それは厳しい命令のようでありながら、逆に言えば、「パンも袋もお金も必要ないのだ、そのような人と人との関係のあり方、信仰の友という関係もあるのだ」ということではなかったでしょうか。イエスは私たちに「何も要らない、何も必要ない、何も持たずとも良い、何の資格も要らない、ただ私に従うだけで良い」と言って、そのような不十分な状態で、私たちを弟子たちのように遣わして下さるのです。
▼肩をいからせず、当たり前のことを当たり前のようにしていく。聞かれようが聞かれまいが出来る限りのことをしていく。それが伝道だと思うのです。自分がイエスに遣わされている光栄に感謝して、自然体で平常心でイエスのことを宣べ伝えていく。そしてその結果は神に委ねていく。当該聖書箇所は、そんな自然体の信仰が言われているのだと思います。
マタイによる福音書 10章 5〜15節(講解㉘)山田雅人
▼休日にプラッと映画を観に行くのが好きです。今は電車に乗りdoor to doorで30〜40分程度で映画館に行けますが、以前勤めていた教会からは、何と徒歩5分程度の所に映画館がありました。ある時携帯電話も忘れ、誰からの連絡も受けなくて良く、サンダル履きで財布だけ持って映画を観に行ったのは実に快適でした。
▼イエスが12弟子を独立させ宣教に派遣したのは、彼らが弟子になってから1年余のことだと言われています。イエスは一人ずつバラバラに派遣したのではなく、マルコの並行箇所によると、「二人ずつ組にして遣わすことにされた」とあり、それは多少なりとも彼らの不安を消してくれたに違いありません。ただし、12人にイエスは「金も袋も下着も履物も杖も持つな」と言われています。文字通り何も持たずの伝道の旅です。旅に出るには不可能なことのように思われますが、イエスが言ったのは「身構えることなく、緊張するのでもなく、普段着の伝道をするように」との勧めだったのかも知れません。
▼「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」−訪問した家が受け入れてくれたら、その家から食べ物と寝る場所を提供してもらうことが暗示されています。また、「旅立つときまで」とどまれということは、一つの家が受け入れてくれたのなら、もう次の土地へ移って良い、ということでしょう。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」−足の埃を払い落とすのはユダヤ人が異邦人の地を去るときに「汚れ」を払い落とす行為です。イエスは弟子たちに「全てを出し切ってそれでも受け入れられなかったら、あとは神に委ねて、淡々と去りなさい」という程度の意味で言ったのでしょう。
▼弟子たちはイエスの言葉通り、受け入れてくれた家には出来るだけ長い間とどまりました。お金も食べ物も持たない二人組は、食と住をお世話になるのですから、偉そうに説教をしたのではないでしょう。彼らは飲み食いを共にしながら、長い間その家の人たちと過ごし、イエスの福音について共に語り、家柄や職業やお金や身分といったこの世の価値観から自由な関係、信仰だけの友となっていったのだと思います。何も持たずとも、ただ信仰と、共にその信仰を分かち合うことの出来る友を増やし、さらに新たな信仰の友との出会いを求めて、旅をしていったのでしょう。
▼こう見てくると、イエスが最初に言った「金も袋も下着も履物も杖も持っていってはならない」と言ったことの真意が見えてくる気がします。それは厳しい命令のようでありながら、逆に言えば、「パンも袋もお金も必要ないのだ、そのような人と人との関係のあり方、信仰の友という関係もあるのだ」ということではなかったでしょうか。イエスは私たちに「何も要らない、何も必要ない、何も持たずとも良い、何の資格も要らない、ただ私に従うだけで良い」と言って、そのような不十分な状態で、私たちを弟子たちのように遣わして下さるのです。
▼肩をいからせず、当たり前のことを当たり前のようにしていく。聞かれようが聞かれまいが出来る限りのことをしていく。それが伝道だと思うのです。自分がイエスに遣わされている光栄に感謝して、自然体で平常心でイエスのことを宣べ伝えていく。そしてその結果は神に委ねていく。当該聖書箇所は、そんな自然体の信仰が言われているのだと思います。
関連記事:
参考文献:
関連サイト:
投稿日:2023年4月10日() 閲覧回数:993