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いきているもののかみ

2021年11月7日(召天者記念礼拝) 「生きている者の神」 マルコによる福音書 12章 18〜27節 山田雅人

▼「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(27節)というイエスの言葉は、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの族長たちが、今も生きているのだ、という意味に他ならない。これは、イエス自身が復活というものをどう考えていたのかが記されている、重要な箇所である。
▼ユダヤ教サドカイ派は、彼らが拠って立つモーセ5書(創世記〜申命記)に復活の記述がないために、人は死んだら肉体と共に魂も滅びると考えていた。この「復活はない」と言っているサドカイ派の人々が、モーセの律法を引き合いに出してイエスに質問をする。これに対してイエスは二つのことを答える。
▼一つは「人が死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」という主張である。これは復活の命を、ただこの地上のことがらの連続線上で理解しようとする姿勢に対する批判として語られている。第二は「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか」という言葉。イエスはサドカイ派が立脚するモーセ5書、そして彼らが復活については書いていないと主張するモーセ5書の中にこそ、死者の復活について書いているではないか、と主張しているのだ。
▼「あなたがたがとうの昔に死んでしまったと思っているアブラハムやその子孫は、今、生きているのだ」との言葉は、死者の復活について述べられているのだから、彼らが「復活」の命を生きているということを意味することになる。「復活」とは現在のことがらではなく、世の終わりの時に起こる出来事だと考えられていた時代にあって、全く意外なイエスの発言はこう締めくくられる―「あなたたちは大変な思い違いをしている」。
▼「聖書も神の力も知らない」(24節)我々は、神という存在について様々な思い違いをする。神が我々人間の頭では考えられぬ新しいことを創造されることに信頼することを忘れる。神と人との関係が、人間同士の関係のように死によって引き裂かれる関係であるとすれば、神の力を否定することになり、復活をも否定することになりはしないか、イエスはそう言いたかったのだろう。
▼復活の根拠も、「私は世々とこしえにあなたと共にいる」という神の約束を知ることの中に存在する。神は死よりも偉大であるがゆえに、この約束は死によっても廃棄されることはなく、人はこの世でも次の世でも神によって生きるのだ。創造主なる神は生きている者の神であるゆえに、我々が生きているにしても死んでいるにしても、常に共にいてくれるのだということを、改めて覚えたい―「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカによる福音書20章38節)。
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