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かわいているものよ

ヨハネによる福音書 7章 37〜39節 「渇いている者よ」 2020.5.24 山田雅人

▼ヨハネ福音書7章は仮庵祭の中でのイエスの様子を記すが、全体の頂点をなすのが37〜38節の記述「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」であろう。祭りが最高潮に達する最終日。巡礼者でごったがえす神殿の境内で、イエスはやおら立ち上がり、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲め。私を信じる者は、体から生きた水が川となって流れ出るようになる」と大声で叫んだのだ。
▼仮庵祭の最終日には、金の器を持って池に水を汲みに行く祭司の後を群衆がついて行き、イザヤ書12章の「あなたたちは喜びの内に救いの泉から水を汲む」という終末の救いを願う言葉を口ずさみながら、神殿に戻ってくる。そして汲んで来た水を祭壇のじょうろに注ぐと、その水は地下に達し、天に巡って雨を降らせるとされていた。群衆の高揚が最高度に達するその時に、イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と叫んだ。それは、人が生きていく上でなくてならぬ水は、祭司が汲んだり注いだりしている水でも、空から降ってくる雨水でもない、という宣言である。
▼ヨハネ4章のサマリアの女の物語を想起させる―「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:14)。五人の男との結婚、離婚を繰り返し、今は新たな男と同棲をしながら、しかし真実の愛に飢え渇いている女に、イエスは井戸端で「渇いている者よ、私の持つ、永遠の命に至る水を飲みなさい」と語る。また、直前の3章では、イエスはファリサイ派の議員ニコデモに「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と言っている。
▼魂に飢え渇く、と言うが、我々が何に渇いているのかは人それぞれだ。イエスは各人の異なる事情を汲み、魂の飢え渇いた人々を「わたしの所に来なさい。あなたの渇きを癒してあげよう」と言って今も招いている。渇きを覚えてイエスのところに来る人こそ、イエスの内にある神の霊の働きを見、また体験することができるのだ。それは、救いが人間の信仰に対する報いではなく、あくまでも神の恩恵であることのしるしである。イエスは死んでも今もなお私たちに霊を注ぎ出して下さる、というキリスト教の確信を、ヨハネは過去に遡ってイエスの生涯の中に移して聖書に記したのだろう。
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