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めいれいによらず

マタイによる福音書 28章 16〜20節  「命令によらず」 2019.05.05

マタイによる福音書 28章 16〜20節  「命令によらず」
                          2019年5月5日 山田 雅人 

▼「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」−「大宣教命令」はイエスの真正の言葉ではなく、後の教会の生み出した言葉。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」は教会の儀式の定型語であり、イエス自身は洗礼を授けたことも、弟子たちに授洗を命じたこともない。そして「あなたがたに命じておいたすべてのこと」とは、マタイ特有の記事「山上の説教」を意味している。
▼マタイは大宣教命令をイエスの命令として、彼の教会に属する人々のために記した。イエスの復活から長い年月が経った時代の人々に、イエスの姿によってではなく、イエスの「言葉」によって信仰を確立する道を打ち出したということだろう。「弟子たちが復活のイエスを見て疑っているところに、イエスは近寄ってこられ、語りかけ、彼らを宣教の業に派遣する」という当該箇所のメッセージは、教会に属する者の縮図であり、我々にも当てはまるものだ。
▼大宣教命令を字義通りに受け取ると、洗礼を受けた者と受けない者、イエスの教えを守る者と守らない者、救われる者と救われない者が区別されるという事が起こってくる。キリスト教が大宣教命令を直解して為してきた伝道は、「信じて洗礼を受け、主の教えを受け入れる者は救われるが、そうでない者は滅ぼされ、地獄に行く」ということになりがちだ。果たしてイエスが命じたのはそういうことであっただろうか。むしろそのような差別・区別の壁を突破し、救いの外に追いやられた者をこそイエスは訪ね求めたのではなかったか。
▼命令には「悔い改めなさい。そうすれば救われますよ」という交換条件が伴いがちだ。しかしイエスの命令にはそうした交換条件は一切語られない。イエスの命令の大前提となっているのは、条件ではなく福音である。我々が伝道をするのは、イエスがそれを命令したからではなくて、人を無条件に受け入れたイエスの内にこそ真の命があることを信じているからだ。命令だから、というような捉え方だと、神によって赦され生かされているという大前提を忘れてしまい、我々は律法主義者となってしまう危険がある。誰かからの命令によらず、ただひたすらイエスの福音を大前提として、心から自発的に、喜びをもって神と人とに仕える者でありたい。

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