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わたしはある

出エジプト記 3章 1〜15節  「わたしはある」 2018.11.18

▼旧約聖書に出てくる神の名前はヤハウェ=主、エローヒーム=神、「インマヌー(私たちと共に)・エル(神)」のエルなど色々ある。創世記を最初から読むと、ある時は「主」、ある時は「神」と訳されているが、これは、主というところではヤハウェという単語が、神と訳されているところではエローヒームという単語が使われているためである。このことは、創世記が一人の著者によって書かれたものではなく、複数の著者が書いた物語を編集したものであることを示す。出エジプト記にも同じことが言える。
▼当該箇所では、神は自らをヤハウェ(主)でもなく、エローヒーム(神)でもなく、「わたしはある」と名乗っている―「神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(14節)。「わたしはある」―これがそもそもの神の名前であり、本質であるというのだ。
▼神は、民全体に語るときはヤハウェ(主)として、あるいはエローヒーム(神)として語りかけるが、人間一人一人に語るときは、主とか神とか言わずに「わたしはある」と語りかける。名を名乗る前に、神とはどのような存在であるかがすでに規定されているのだ。そしてその「わたしはある」という方は、7節に「神は、エジプトにおけるイスラエルの人たちの苦しみ、叫びの祈りを聞いた」と記される通り、人間の苦しみを見、叫びを聞き、その痛みを知って揺り動かされる方である。
▼新約のヨハネ福音書は、「わたしはある」という神の言葉を、イエスに語らせている―「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(8:58)。イエスが神から与えられた使命とは、神がインマヌエルの神であること、我々と共にいる神であることを示すことであった。人はすべて、誰であれ、どんな人間であれ、インマヌエルという事実によって存在し、生かされて存在している。これは無条件、無前提の事実である。この事実に一切の条件付けや分け隔ては存在しない。イエスはこのインマヌエルの事実に気づき、この事実に基づいて生き、この事実を圧倒的な印象深い言葉と振る舞いによって示された。
▼我々にとって大切なことは、「神がある」という事実に気づき、共にいます神の働きによって生かされている生を生きることである。「わたしはある」と語る神が確かに我々と共におり、そしてその事実をイエスがもたらしてくれたことを改めて覚えたい。
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