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しんだもののかみでなく

マルコによる福音書 12章 18〜27節 「死んだ者の神でなく」 2018.11.4 召天者記念礼拝

▼当該箇所はイエス自身が「復活」をどう考えていたのかが書かれている重要な箇所。復活を否定していたユダヤ教サドカイ派がイエスに一つの問いを出す―「もし死後の生命があるなら、七人兄弟の長男と結婚した女が夫に先立たれ、次に次男と結婚すると次男も死に、同様に次々に七人の兄弟と結婚して死別し、最後に自分も死んだ女は、復活の時誰の妻になるのか。困るではないか。」
▼イエスは「あなたたちは思い違いをしている」と答え、復活とは一度死んだ者がまた元のような地上の生命を回復することではなく、「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と語る。天使とは死を越えた存在であり、地上の人間よりももっと神の近くにいて、昼も夜も神に仕えている存在。我々は復活によって、地上にいた時よりもずっと神のそば近くに、神と共にいることを赦されるということだ。
▼「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」―出エジプト記3章で神がモーセに言われた言葉。彼らはむろん肉体的には死んだ人々である。しかし今もなお彼らは神との交わりの中におかれ、神に仕える天使のように、地上にいた時よりも親しく神のみもとで神の栄光をあらわしつつあるのだ、とイエスは語る。
▼この世に対しては、人は皆いつかは死ぬ。しかしそれは神に対して死ぬことではない。神に対しては我々は相変わらず生きるのだ。死は世界と人間に対する関係の変化であって、神に対する関係の変化ではない。アブラハムもイサクもヤコブも、この世に対しては死んだけれども、神に対しては生きており、神のそばで仕える天使のようなあり方で、この世にいた時よりいっそう親しく神との交わりのうちに置かれ生きているのだ、とイエスは言う。だから「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのだ。何よりイエス自身がその「復活の生命」を生きている存在である。
▼「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:9)―神は生きている者の神であり、我々はたとえこの世に対しては死んでも、神に対しては変わらず生きるものなのだ、という聖書の告知を、我々は思い違いをすることなく、神の力を知り聖書を知るゆえに、信じる者でありたい。

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