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めぐみにおいかけられて

詩編23編1〜6節「恵みに追いかけられて」 2018.4.15

▼詩編23編は、神と共にある人生のこの上ない幸いを歌った「神信頼の歌」と呼ばれる。冒頭の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」が、詩の内容のすべてを言い表している。神が羊飼いであるならば、その事実だけで、「私」はいっさい欠乏しないというのだ。この詩人は、人間の無力さを知り尽くした、人生の終わりを迎えつつある年長者であったと想像する。この詩は、自信に溢れた信仰者の宣言ではなく、自らの弱さと無力さを知る者にこそ与えられる、まるで幼な子のような神への信頼の表明である。詩人は自分の人生最期の時も、愛する家族や周囲の者を、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(4節)と告白できる神に託して、天に召されていったことだろう。
▼この詩人は自分の人生を振り返り、いわば人生の総括ができて、この世の生を終えることができた人であったかもしれない。しかしこの世は、そのような人生の総括ができて死んでいった人ばかりではなく、理不尽な、不条理な死でもって人生を終えた人も多くいることを思う。他ならぬイエス自身がそうであった。イエスの地上の生は、弱者に寄り添い、見返りを求めず他者に自分の全てを与え、その報いが十字架の死のみであるような生き様であった。そのイエスに我々は出会い、人はどう生きるべきか、誰と共に生きるのかという神の意志を知らされた。イエスの生き様が今も残り、我々を生かし、我々の内にいて働いていることが、よみがえりであり、復活である。
▼この詩人と同じように、例えば我々の今は亡き家族や教会の先達たちも、自分の人生に常に神が共におられ、そしてその神に家族や周囲の者のことを託して天に召されていったことだろう。我々は彼らと死で分かたれても、自分よりも他者を愛し、人に仕えて生き抜いた彼らの、それぞれの生き様を継承して生きることができる。先達たちの信仰によって、我々もまた目に見えぬ神によって愛されていることを知ることができる。ただ自分が無条件に神に愛されている存在であることに気づくことが、私たちに慰めをもたらすことを詩人は語る。我々は、たとえ絶望して神と人とを愛することを放棄したとしても、愛されることは決して放棄できない。それが「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」(6節)ということの意味である。
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