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ドラむすこのふっかつ

2025年9月28日 礼拝メッセージ要旨 「ドラ息子の復活」 ルカによる福音書 15章 11〜32節(ルカ講解75)

▼イエスが徴税人や罪人と話し、食事を共にするのを見て、ファリサイ派と律法学者が「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした(15:2)のに答えてイエスが語られたのが、15章の三つの譬え話だ。前回の「見失った羊の譬え」と「無くした銀貨の譬え」では、神は失われた者をどこまでも探し続ける神であることが言われているが、「放蕩息子の譬え」は逆に、失われた者をどこまでも待ち続ける神が描かれる。
▼伝統的にこの物語は「放蕩息子の譬え」、「放蕩息子の悔い改め」として読まれる。しかし、物語は「ある人に息子が二人いた」という言葉で始まり、父親の言葉で終わるので、本当の主人公は父親ではないだろうか。その父親とは「神」を示し、息子は2種類の人間−ひとりは「自分を正しい人間」だと思っている人々(ファリサイ派と律法学者)、他は放蕩息子に象徴される、神から離れた生活をしている人々(イエスが食事を共にしていた罪人たち)の象徴である。
▼財産の分け前をもらって家を出ていき、あげく放蕩の限りを尽くして没落し、悔い改めて父親に謝罪しようと家に戻ってきた弟息子を、父親は無条件に受け入れる。息子を待ち続け、見つけた彼を「まだ遠く離れていたのに」「走り寄って」抱きしめ接吻し、息子の悔い改めの言葉も最後まで聞かず急いでもてなし、兄息子の帰りを待たないで祝宴を始める−それは失われた者をどこまでも待ち続ける神の姿だ。
▼我々キリスト者はすべて、この経験をした者たちではないだろうか。ここで悔い改めとはただ「父の元に帰ろう」と決意したことである。その場合、悔い改めの言葉さえ無用であったことを経験した。教会はそういう経験をした者の集団ではないか。悔い改めのために、私たちは何かをしなければならないわけではなく、ただ父の元に帰ればいい。ただ、生き方の方向を変えればよい、という経験である。
▼「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(24節)。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ(32節)−ここで二回、「死んでいたのに生き返ったのだ」と言われていることは、「復活」をきわめて精神的なものとしてイエスがとらえていることを示している。遠く離れていたのに息子の帰ってくることをじっと待ち続けていた父、すなわち、父なる神のもとに立ち帰っていくこと、それが死者からのよみがえりであり、復活である、とイエスは語るのだ。

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