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いのりのちから

2025年1月19日 礼拝メッセージ要旨 『祈りの力』  ルカによる福音書9章37〜43a節(ルカ講解44) 山田雅人

▼イエスが一人の子どもの病を癒した話。この時イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブと共に高い山の上にいた。他の弟子たちは山の下で、イエスたちが帰ってくるのを待っていた。その弟子たちのところに、「私の子どもの病気を治してください」と、一人の父親がお願いに来る。イエス不在の中で弟子たちは病気を治そうとしたが、出来なかったようである。
▼ルカは省略しているが、マルコの並行箇所(9:14〜)によると、この時彼らは律法学者たちと議論していたようだ。イエスは弟子たちが子どもの病気を治せなかったのを聞いて、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆く。そしてすぐに子どもを連れて来させて、取りついていた霊を叱りつけると、霊がその子から出て行って、病気はたちまち治った。
▼なぜイエスは病気を治すことが出来たのか。マルコ(9:29)でイエスはこう答えている−「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。つまり、実際のところこの時イエスは、懸命に祈ったのではないか。力強い言葉と力で霊を叱りつけたからではなく、それ以上に、イエスは懸命に神に「どうかこの子を助けてください」と祈ったのだ。反対に、弟子たちは祈ることすら忘れていたのだろう。
▼それにしても、果たして祈るだけで、病気が治るのだろうか。この物語は、直前に高い山の上に所にいたイエスが、そこから降りてきて、低い所で、一人の子どもが苦しんでいる所に、無力な姿でひざまずいて祈る姿を描いている。神のような強い力を使って病気をたちまち治してしまうイエスではなく、無力にひざまいて、ただ神の助けを祈る。そういうことによってしか、この子どもに仕え、この子どもを癒すことは出来ないのだと訴えるイエスの姿だ。
▼祈りは、自分の力に頼ることの放棄である。自分の弱さを認め、ひたすら神にすがるしかないことを信じることである。イエスが神に祈っている姿を、父親も子どもも見ていただろう。自分たちのためにひざまずいて祈り、必死に仕えようとする一人の大人の姿を、彼らはどのように受け取っただろうか。それは決してただ無力なだけの姿ではなく、そこには「無力の力強さ」としか呼び得ない、不思議な力が沸いていたのを感じたのではないか。そしてその背後に神がいることを確信したことだろう。
▼信仰は「自信」とか「信念」とは違う。それは神の業だからだ。「神様、できれば、憐れんでお助けください」という中途半端な信仰から、「信じます、信仰のない私をお助けください」へと変わる者でありたい。

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