聖書と共に
でしのひとりだち
2024年12月15日 礼拝メッセージ要旨 『弟子の独り立ち』 ルカによる福音書 9章 1〜6節(〜ルカ講解㊴〜) 山田雅人
▼イエスの十二弟子派遣の記事−「杖も袋もパンも金も持つな」、「下着も二枚は持つな」と、文字通り何も持たずの伝道の旅である。イエスが遣わされた弟子たちの姿は、「持たざる者」の姿だ。彼ら自身が「助けを必要とする者」として村へ入って行かざるを得ず、権威ある者のように振る舞うことは出来ない。しかし、だからこそ、自らの力ではなく神の御業が現れることを期待するしかなかったのだ。
▼「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」(4節)−弟子たちは全くの無一文で食糧も持たずに巡回するのだから、訪問した家が受け入れてくれたら、その家から食べ物と寝る場所を提供してもらうことが暗示されている。しかも「その家から旅立ちなさい」ということは、もうその土地での伝道はそこで終わりにしなさい、ということだ。この家が受け入れてくれたからあと一軒、あと二軒と欲張るのではなく、もう次の土地へ移って良し、ということだろう。
▼反対に、拒否された場合は5節でこう言われている−「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」足の埃を払い落とすのは、ユダヤ人が異邦人の住む場所を去る時に「汚れ」を払い落とす行為。パウロがコリント教会で自分の教えに耳を傾けなかったユダヤ人に対し、異邦人の土地へ出向く際「服の塵を振り払った」(使18:6)のは、断絶を表す象徴行為である。イエスの場合は、弟子たちに「お前たちが全てを出し切って、それでも受け入れられなかったら、あとは神に委ねて、淡々と去りなさい」という程度の意味で言ったのではないか。
▼イエスは弟子たちを二人組にして遣わした(マルコ並行6:7)。それは、途中で何があっても寄り添い、励まし合い、支え合い、祈り合える、対等な関係、物にも左右されない、信仰という名だけの関係で行きなさい、ということだったのではないか。旅の間、様々なことがあっただろう。しかし、やがて弟子たちは、自分たちと同じ信仰の友を獲得し、何も持たずとも、ただ信仰と、共にその信仰を分かち合うことの出来る友を増やし、さらに新たな信仰の友との出会いを求めて、旅をしていったのだろう。
▼こうして見てくると、イエスが最初に言った「杖も袋もパンも金も持っていってはならない」と言ったことの真意が見えてくる。それは厳しい命令のようでありながら、逆に言えば、「パンも袋もお金も必要ないのだ、そのような人と人との関係のあり方、信仰の友という関係もあるのだ」ということではなかったか。何も要らない、何も必要ない、何も持たずともよい、何の資格も要らない、ただイエスに従うだけでよい。そしてイエスは、そのような不十分な状態で、私たちを弟子たちのように遣わして下さるのだ。
▼「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」(4節)−弟子たちは全くの無一文で食糧も持たずに巡回するのだから、訪問した家が受け入れてくれたら、その家から食べ物と寝る場所を提供してもらうことが暗示されている。しかも「その家から旅立ちなさい」ということは、もうその土地での伝道はそこで終わりにしなさい、ということだ。この家が受け入れてくれたからあと一軒、あと二軒と欲張るのではなく、もう次の土地へ移って良し、ということだろう。
▼反対に、拒否された場合は5節でこう言われている−「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」足の埃を払い落とすのは、ユダヤ人が異邦人の住む場所を去る時に「汚れ」を払い落とす行為。パウロがコリント教会で自分の教えに耳を傾けなかったユダヤ人に対し、異邦人の土地へ出向く際「服の塵を振り払った」(使18:6)のは、断絶を表す象徴行為である。イエスの場合は、弟子たちに「お前たちが全てを出し切って、それでも受け入れられなかったら、あとは神に委ねて、淡々と去りなさい」という程度の意味で言ったのではないか。
▼イエスは弟子たちを二人組にして遣わした(マルコ並行6:7)。それは、途中で何があっても寄り添い、励まし合い、支え合い、祈り合える、対等な関係、物にも左右されない、信仰という名だけの関係で行きなさい、ということだったのではないか。旅の間、様々なことがあっただろう。しかし、やがて弟子たちは、自分たちと同じ信仰の友を獲得し、何も持たずとも、ただ信仰と、共にその信仰を分かち合うことの出来る友を増やし、さらに新たな信仰の友との出会いを求めて、旅をしていったのだろう。
▼こうして見てくると、イエスが最初に言った「杖も袋もパンも金も持っていってはならない」と言ったことの真意が見えてくる。それは厳しい命令のようでありながら、逆に言えば、「パンも袋もお金も必要ないのだ、そのような人と人との関係のあり方、信仰の友という関係もあるのだ」ということではなかったか。何も要らない、何も必要ない、何も持たずともよい、何の資格も要らない、ただイエスに従うだけでよい。そしてイエスは、そのような不十分な状態で、私たちを弟子たちのように遣わして下さるのだ。
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投稿日:2026年4月24日() 閲覧回数:49