メインメニュー
アクセスカウンター
 
2025/02/09:92/139
2025/02/08:73/137

2024/11/26より3073/13727
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

聖書と共に

頭文字(イニシャル)別
A  B  C  D  E  F  G  H  I  J  K  L  M  N  O  P  Q  R  S  T  U  V  W  X  Y  Z
あ行  か行  さ行  た行  な行  は行  ま行  や行  ら行  わ・ん  その他  すべて
あたらしいかぞくのかたち

2024年11月17日 礼拝メッセージ要旨 「新しい家族のかたち」 ルカによる福音書 8章 19〜21節 山田雅人

▼イエスの家族について、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」(20節)と記される。どうして彼らは群衆の中へ入ってイエスに声をかけることをせずに、わざわざ人を使ってイエスを呼びに行かせたのだろうか。「群衆のために近づくことができなかった」(19節)とあるが、実はそうではなく、家族はイエスに近づかなかったのだ。
▼「外に立つ」という言葉で描かれる家族は、すでに自分たちから直接イエスに歩み寄ることを拒否しており、人を使って、そして「気の狂った」イエスを取り押さえるために、やって来たのだ(マルコ並行3:21)。この家族のイエスに対する無理解は、ルカ4章で学んだ「故郷のナザレで受け入れられなかったイエス」の記事を思い起こさせる。イエスが故郷で受け入れられなかったということは、まず自分の家族から受け入れられなかった、ということであった。
▼「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(21節)とイエスは言った。ここでイエスのもとに集まっていた群集は、病や障がいを負うゆえに、家族からも社会からも切り離されて生きざるを得ない人々であった。この世の型にはまらず、家族の型にはまらず、規範の外に追いやられていた人々であった。イエスのもとに集まり、「あなたたちこそ私の家族だ」と言われた人々は、この世の現実において家族や親族の絆や交わりから断たれて生きざるを得ない人々であったのだ。
▼中には幸せな家族に囲まれて生活していた人もいただろうが、家族と呼べるものを持たない人、家族関係の破綻してしまった人、あるいは家族から理解されない人、そんな人々にとっては、「あなたたちこそ私の家族だ」というイエスの言葉は何と開かれた、希望に満ちた言葉だっただろうか。そのような人々がイエスのもとでは一人の人間としての尊厳を確認させられ、受け入れられ、命を取り戻していく。イエスはそこに、自分が捨てざるを得なかったこの世の家族とは全く別の、家族というもののありようを見出したのだろう。
▼一人ひとりの個性と尊厳を持つ人間を、世間体とか常識とか人並みといった規範に押し込めようとしてしまう、いわば規範としての家族ではなく、むしろその規範からはみ出てしまった者たちが、そこで本当に尊厳を回復し、個性を認められ、人の交わりを形作り、まことに人として生きていける共同体として、イエスはその人々と共に家族たろうとしたのだ。我々も、一人ひとりの個性や尊厳を重んじ、多様性や主体性をこそ育む温床としての「家族」を、家庭においても、教会においても、属する群れにおいても、形作るものでありたいと思う。

関連記事:
参考文献:
関連サイト:
Powered by Xwords  based on Wordbook
閲覧者のコメント
投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。
検索
聖書と共に
A  B  C  D  E  F  G  H  I  J  K  L  M  N  O  P  Q  R  S  T  U  V  W  X  Y  Z
あ行  か行  さ行  た行  な行  は行  ま行  や行  ら行  わ・ん  その他  すべて

個人情報保護について | サイトマップ


Copyright© 2009-2023 日本キリスト教団 甲南教会