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いやしぬし

2022年9月4日 「癒し主」  マタイによる福音書 8章 14〜17節(マタイ講解押忙嚇腸躾

2022年9月4日 礼拝メッセージ要旨 「癒し主」 
マタイによる福音書 8章 14〜17節(マタイ講解押忙嚇腸躾
▼既に学んできたマタイ8章から始まる箇所から改めて知らされるのは、「神が癒し主である」という事だ。イエスの活動は山上の説教に代表される「教え」だけではなく、皮膚病や中風の病人の「癒し」もあり、教えと癒しがセットであるかのように見える。しかもそれだけではなく、やがて9章に出て来るが、イエスは周囲から差別された人々と食事を共にするようになる。ゆえにイエスの活動の基本は、「宣教」と、「癒し」と、「共食」、この三点セットであったと言える。現在の教会で言うなら、礼拝と、訪問と、愛餐と言えるだろうか。
▼イエスが弟子のペトロのしゅうとめの病を癒す当該記事、マタイは締めくくりにイザヤ書53章の「苦難の僕」の引用を記す−「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」。今日の箇所はマルコとルカにも並行記事があるが、イザヤ書53書からの引用はマタイにしかない。マタイは、病人の癒しというイエスの業が、苦難の僕の預言の成就であると理解しているようだ。
▼ペトロのしゅうとめの癒しは、一見すると、誰も頼んでいないのに、イエスが彼女を癒された記事に見える。ただ、このしゅうとめは癒されると起き上がってイエスをもてなしたと記される。「もてなす」は「仕える」の意。イエスに仕える、また、神に仕える。それはイエス自身の徹底した姿勢であり、我々イエスに従う者にも要求される最も基本的な姿勢だ。娘婿の家に病のために転がり込んだ自分は厄介者だと自分を否定し、元気になることさえ願おうとしなかったしゅうとめが、イエスに「仕える者」になっていく。その喜ばしさが描かれた記事だ。
▼このしゅうとめの癒しのあと、16節には「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」とある。ルカの並行箇所(4章40節)には「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とある。その手から伝わって来たものは、病気を癒す「力」ではなく、病人の気持ちを暖かく包む「愛」であり、相手を一人の、生きた人間として見るイエスの「心」であった。イエスは集まってきた一人一人と向かい合い、手を置き、癒しを行なった。「苦難の僕」が世の罪を負い、代償の死をとげた姿の預言が、イエスによる癒しによって成就されたとマタイは理解したのだろう。
▼我々が願わずとも、諦めかけていても、イエスは自ら我々のそばに来られ、手をとって起こされる。そして、その喜びに与かった者を、神と人に仕える者とされる。自分のいただいたその恵みを自分のために用いないで、今度はイエスに従い、他者に仕える者とされる。貧しい人、孤独な人、弱っている人に仕えることが、私に仕えることなのだ、という癒し主・イエスの宣教に連なる者でありたい。
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