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じぶんをしずめる

2022年1月9日 「自分を沈める」 マルコによる福音書 1章 9〜11節  山田 雅人

2022年1月9日 礼拝メッセージ要旨 「自分を沈める」
マルコによる福音書 1章 9〜11節  山田 雅人

▼「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でバプテスマを受けられた」―イエスはダビデの子孫でもなく、聖霊によって降誕したのでもなく、ガリラヤのナザレから出て来た一人の男として登場する。このイエスがまず洗礼を受けた、ということをもって、マルコ福音書は始まる。
▼他の福音書は、イエスがヨハネから洗礼を受けた事実を、何とかしてぼやかそうとする。初期キリスト教団にとっては、この事実は都合のいいものではなかった。イエスがヨハネに従属するという印象があるからだろう。荒れ野に引っ込み、粗食生活をし、悔い改めのバプテスマを行うヨハネの信仰に共鳴したからこそ、イエスは洗礼を受けたのだろう―「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(ルカ7:28)、「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信じなかった」(マタイ21:31)。実際、イエスの弟子となった人の中には、かつてヨハネの弟子だった人が多くいた。
▼しかし、徐々にイエスはヨハネと袂を分かつようになり、ヨハネの倫理的な厳格主義、禁欲主義とは180度異なる方向に歩み出て行く。ヨハネとは正反対に、イエスは自分から町や村に入っていき、そこで人々に語りかけ、出会った病人を癒し、そして食事を共にする。イエスの活動はヨハネの継続であり、展開であり、そして、批判的な継承であったと言えるだろう。
▼当該箇所で大切なのは洗礼の事実ではなく、洗礼を受けたイエスに聖霊が降ったということだ。「天が裂けて霊が鳩のように降った」―これが1章冒頭の「福音のはじめ」である。イエスの最期の時にも「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた」と記される。初めに天が裂け、神の霊がイエスの中に宿り、イエスを通して力をもって働き始め、最後に神殿の垂れ幕が裂け、神の霊が再びイエスに降り、イエスの死が死で終わらず、死のあとも神の働きはイエスを通して続く、ということだ。
▼洗礼のもともとの意味は浸礼、つまり、自分を一番低い所に沈めるということ。そして、天が裂けたというのは、神が低みに降りてくる神であることを意味する。それは、神の意志である。他ならぬイエスも、洗礼によって一番低い所に自分を沈め、そこから自分の活動を開始していった。神の御心にそって、社会の一番低いところに身を置き、身分を低くされた人の所を訪れ、宣教をしていった。神の子イエス・キリストは、最初の存在から神の子となったのではなく、低いところに自ら立つ、という神の意志を担うがゆえに神の子となったのだ。
▼イエスはヨハネのように、洗礼を受けるために「悔い改めなさい」とは言わず、洗礼を受ければ「罪が洗い流される」とも言わなかった。洗礼は福音のはじめ−自らを最も低くし、最も低くされた人のところへ足を向けるという、イエスの生き方を踏襲することである。洗礼は目的でもゴールでもなく、始まりであり、それは我々にとっての「生き方の方向転換」の始まりである。そこから福音においてイエスを信じ、イエスに従い、イエスを宣べ伝えていく生き方が始まるのだ。
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