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2021年5月2日 「真理の道を」 ヨハネによる福音書 14章 1〜14節 山田 雅人

2021年5月2日 「真理の道を」
ヨハネによる福音書 14章 1〜14節 山田 雅人
▼「私の行く所にあなたがたは来ることができない」、「私を見た者は既に父を見たのだ」−そう語るイエスに弟子のトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と言い、フィリポは「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と問う。トマスは「目に見える道」、フィリポは「目に見える神の姿」を求める。彼らの誤解は、直接神や神の示す道を見ることを求めている点にある。この世には何一つ永続するものはないのに、永遠に続くものをあくまでも目に見える形で求めようとする価値観から抜け出せない人間の姿が示されている。
▼そこでイエスは、彼らの質問にそのまま答えることはせず、「私が道であり、真理であり、命である」と答える。ヨハネ福音書のイエスはこれまでにも「私が命のパンである」、「私が世の光である」と言い、次の15章では「私がまことのぶどうの木」と語る。この世のパンは腹を満たしてはくれても、永遠の命を与えてはくれない。この世の光は暗い場所を照らしてはくれるが、心の闇を照らし出してはくれない。この世のぶどうの木は収穫の喜びをもたらしてくれても、その喜びは永続しない。だからイエスは「わたしはぶどうの木」とは言わず、「わたしがまことのぶどうの木」と語り、「わたしはパンである」でなく「わたしが生命のパンである」と語り、「わたしは光である」でなく「わたしが世の光なのだ」と語るのだ。
▼さらにヨハネ福音書のイエスは「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、あなたがたは既に父を見ている」と語る。イエスの時代、神は人間を超越した存在だと考えられていた。神と人間の違いと隔たりは決定的なもので、人々は神に圧倒され、その神を見ることができるなどとは決して考えていなかった。しかしイエスはいとも単純に「わたしを見た者は、父を見たのである」と語った。そのイエスにおいて人々が見たのは人間を愛したもう神であった。人生には愛ばかりではなく、苦しみもある。我々がイエスの内に見るのは、人のために激しく思い煩い、人と共に悲嘆にくれ、その心に傷を負われるまで人を愛し抜かれた、そのような愛の神である。
▼我々が価値のある人生、真理のうちに生きる人生を送るのに必要なものは、この世の光、この世のパン、この世の真実、この世の命ではない。なぜならこの世は人間を光ではなく闇に葬り、パンでは満たされない魂の飢えに直面させ、真実ではなく偽りに満ち、命ではなく死の中に放置させることがあるからだ。「主イエスは道です、真理です、生命です」―道は「初め」、真理は「途上」、生命は「終わり」を意味する。「私は初めであり、途中すべてであり、終わりである」と約束されるイエスに従い、イエスを信じ、イエスの中にとどまる者は、彼が約束した永遠の命、永遠の神とともにある命を持つのだ。
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