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2021年4月11日 「人生の途上で」 ルカによる福音書 24章 13〜35節  山田 雅人

2021年4月11日 「人生の途上で」
ルカによる福音書 24章 13〜35節    山田 雅人
▼ルカは、9章から最後の24章まで、弟子たちがガリラヤからエルサレムまでのイエスの宣教旅行に一緒に伴った、という形で福音書を記す。当該箇所のエマオ途上の物語は、その旅の縮図である。またこの物語は史実というより、イエスの死後のキリスト者、我々に語られているメッセージと言える。つまり復活者イエスとはどんな方なのかを我々に教え、「やっぱりダメだ、復活などあるはずがない。死んだら終りだ」―我々がそう思う時にこそ復活者は現れるのだ、ということを主張している。
▼復活者イエスは、失意のもとにあった二人の使徒のところに自ら近づいてきて話しかけ、一緒に歩き始める。それは、イエスが自分の道に私たちを無理やり引き寄せるのでなく、イエス自ら私たちの人生の道を共に歩まれる方であることを示すものだ。しかし最初、弟子たちにはそれがイエスだとは分からなかった、なぜなら彼らの眼が遮られていたからだという。そんな馬鹿な話があるかと思うが、我々自身の人生に置き換えた場合、それはあり得る。我々の信仰の眼が遮られているとき、たしかに我々はイエスの語りかけにも、共に歩いて下さっているイエスの存在にも気づくことがないからだ。
▼この遮られていた彼らの眼を開くため、イエスは二つのことを行う。一つは聖書の解き明かしである。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」―今も生きて働くイエスを時として忘れ、闇に沈む我々の心は、聖書の言葉によって燃え上がるのだということだ。もう一つはパン裂きである。イエスがパンを裂いた時、彼らは生前のイエスとの交わりに引き戻され、信仰の眼が開かれ、イエスを認識する。しかしその瞬間イエスは姿を消す。復活者の存在は肉眼で見えるものではなく、復活者自らの働きかけによって体験をした者にしか伝えることのできないものだということだ。
▼イエスは二人の弟子と「一緒に歩き始め」、「一緒に宿に泊り」、「一緒に食卓の席につかれ」た。イエスは我々の日常の歩みに、いつでも、どこでも伴われるのだ。しかし、目に見えるイエスのみを追い求め、目に見える救いのみを追い求めていては、我々は自分と一緒に歩いてくれる復活者に気づかないのだろう。しかしイエスはそのような我々の眼を開くために、今もなお御言葉を注ぎ、パンを裂かれる。その意味で、この物語は礼拝の縮図でもある。
 





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