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じぶんをすてるということ

2021年3月7日 「自分を捨てるということ」 マタイによる福音書 16章13〜28節 山田雅人

2021年3月7日礼拝メッセージ要旨
マタイによる福音書 16章 13〜28節  山田 雅人

▼イエスを安易に「神の子、メシア」と呼んではならないこと、そして「神の子が殺されるなどあってはならない」と思うこと。この二つのことが読む者に問われているのが、当該箇所だ。ペトロをはじめとする弟子たちはイエスを理解せず、誰が一番偉いかなどと言い争い、やがてイエスが受難する時には裏切り、逃亡してしまう。そういう現実を前にして口先だけの信仰告白を述べても、意味はない。そこでイエスは自分の受難を予告し、それでも従ってくる意志があるのかないのかを弟子たちに問う。イエスが求めたのは、共に死ぬことをも厭わない信頼と、共に苦難を背負う覚悟であったのだと、受難予告の物語は語る。イエスと共に愛をもって他者に仕え、この世の不条理と闘っていく生き方をしていく、読む者がそのような信仰に至るように、この物語は記されたのだろう。
▼本当にイエスに従う生き方が、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われる。自分を「捨てる」とは、自分を「否む」という意味だが、自分を否定するとはどういうことだろうか。それが「自分の十字架を背負う」という言葉に示されている。「十字架を負う」というと、よく、自分の病気とか、不幸な境遇とか、苦しいことが十字架だと思われる向きがあるが、そうではない。自分の十字架を負う、とは、自分に与えられた使命を生きることだ。自分の十字架とは、自分に課せられた課題であり、神からの期待であり、神から私に与えられた使命のことである。
▼その意味で、信仰をもって生きるというのは、苦しみがなくなり、人生の問題がすべて解決するための万能の薬とは違う。信仰をもって生きるとは、間違いなく、神のために背負うものがある生き方であり、そのために苦しみすらも、時には味わわなければならない生き方だ。私を愛して、死の滅びから救い出すために世に来られたイエスのために、私たちも重荷を負う、という生き方である。聖書が語る、私たち人間のあるべき姿は、私たちの人生を全責任をもって受け止め、愛して下さる神に対して、十分には出来ずとも責任をもって応えていく、というものだ。
▼イエスが十字架につけられる時には逃げてしまった弟子たちをさえ、イエスは最後まで見棄てず、受け入れた。信仰の人生は、まさに、イエスを何と呼ぶかではなく、イエスに従う者としてどう生きたかに尽きるのではないか。事あるごとに、自分の命だけに固執する生き方から離れて、神と他者とに思いを馳せる積み重ねの中で、イエスに従う信仰の道を刻んで行き、そしていつの日か、自分の人生を振り返った時に、「ああ、この道を曲がりなりにも歩んできて良かった、これは神が導きイエスが伴って下さった道だった」と思えるような歩みをしたい。
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