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しんこうはきくことから

「信仰は聞くことから」 ローマの信徒への手紙10章5〜17節 2020.6.14 山田雅人

▼「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(17節)―パウロは、信仰はキリストの言葉、すなわち聖書の御言葉を「読む」のではなく「聞く」ことによって始まるのだと言う。「私がこう信じる」ではなく、「神が私に何を語りかけているか」を聞き、受け止めることから信仰は始まるのだと。先輩牧師に説教作成は「ただ聖書から聞いたことを書けば良い」と言われたことがある。自分はまだまだそんな簡単にはいかないが。
▼神を熱心に信じたり、一生懸命お祈りすることが信仰深いように思われる。しかし、自分の熱心が神を動かしたり何かを生み出すとすれば、重点が神ではなく自分になってしまう。キリスト教の重点はあくまでも神にあり、人の熱心や苦行が我々の信仰の基盤ではない。神がこうしてくださった、という神の側の出来事から我々の信仰は始まっている。このことが基本にあれば、聖書の読み方もおのずと自分流の「読み方」ではなく、あくまでも神の言葉として「聞く」、という姿勢に変えられる。
▼信仰生活をしながらも、誰しも日々の出来事に失望したり、些細なことで落ち込んだり、自分の思うようにならず気を落とすことがあるだろう。しかし我々は本当に失望しているのだろうか。信仰を持たない人と同じく、目の前のことでがっかりはしても、それでもどこか失望しきってしまわないところがないだろうか。それは、我々が自分の失敗や不幸を表面のことだけで判断しようとはしないからだろう。常に神に立ち帰ることを知っており、祈ることも知っており、「もう信仰も何も捨ててしまえ」とは簡単に言えないことも分かっている。涙は流すし愚痴を言うこともあっても、神の前に出ることは知っている。我々が知らず知らずのうちにそのように強められているのは、「キリストの言葉」を聞き続けているからだろう。
▼パウロは、「キリストは律法の目標(直訳は「終わり」)となられた」(10:4)と語った。イエス・キリストが律法主義の終わりとなられた、つまり信仰は業績や行いには関係ない、無条件の神の恵みだと断言したのだ。「あなたは自分であくせく骨を折る必要はない。救いの御言葉は厳としてそこにある。あなたは心から信じてそれに依り頼みさえすればよい。それで救いはあなたのものとなる。神が一切を備えて下さったがゆえに、あなたはただ受けさえすればよく、また、ただ受ける他に何も為し得ないのだ。律法の義にあっては、全てが行いにかかっていたが、今あなたは私を信じること、そして心に信じたことを口に言い表すだけでよいのだ」―そんなイエスの語りかけが聞こえてくるようだ。


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