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かみのわざがあらわれるため

ヨハネによる福音書9章1〜12節 「神の業が現れるため」 2020.3.8 山田雅人

▼イエスが「生まれつき」の病を癒すという物語は、当該箇所だけである。通りすがりに生まれつきの盲人を見かけたイエスの弟子たちが、イエスにこう質問する―「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(2節)。
▼病気と罪を結びつける当時の因果応報思想をイエスはきっぱりと否定する―「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。こうしてイエスは「神は人間の罪に対して裁きを下し、罰する方である」という、従来の神理解を覆し、「神は現実に苦しむ人に寄り添い、愛を注ぐ方なのだ」という新しい神理解を自ら体現する。それは、奇跡物語においてイエスが一貫して、事が起これば直ちに現場に向かい、厳しい現実に関わり、その人が直面している苦しみに寄り添うことで少しでも軽減しようとした姿勢である。
▼イエスがこの癒しを行なったのが安息日であったため、ファリサイ派は彼の行ないが律法違反に当たるとして、目の見えるようになった男とその両親に繰り返し尋問をする。癒された男が「私がただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」と答えても、頑なな彼らはイエスの癒しを信じようとせず、ついにはこの男を外に追い出してしまう。
▼「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(39節)―我々はこの言葉によって、罪のある場所が逆転していることに気づく。イエスは見えない者に罪はなく、逆に自分が見えると言っている者にこそ罪があるのだと言う。目の見えないことが罪のせいだとか、不幸なのではなく、目が見えないことを罪のせいだといい、それを理由に様々な差別がなされることが本当の盲目であり、罪であると言うのだ。
▼我々誰しも人生における様々な災いや悲しさは避けられないのだろう。しかしその闇の部分をこそ神は引き受け、恵みを表すための道とされる。神は、我々人間が「もうダメだ、できない、絶望だ」という所にこそ、イエスを通して光を当てられる。神の業は、我々が最も弱いところにそ現れるのだということを、9章の物語は改めて語っているのだろう。







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