聖書と共に
きりすとのしもべ
ガラテヤ書1章6〜12節 「キリストのしもべ」 2018.9.2
▼パウロが伝道旅行に赴き、信仰の基を築いたガラテヤの教会には、パウロの福音をねじ曲げようとする敵対者たちが現れ、教会員を惑わしていた。彼らに対してパウロは激しく怒り、ガラテヤ教会の人たちに対しても深く嘆く―「あなたがたがこんなにも早くほかの福音に乗り換えようとしていることに私は呆れ果てている」、「私の語った福音に反する者たちは、呪われるがよい」。パウロは自分がここまで言い切る理由を二つ述べる。一つは自分がキリストの僕であるということ(10節)、もう一つは、自分の福音は人からのものではなく、イエス・キリストの啓示によるものだということである(12節)。
▼「僕」と訳されている語の原語は“ドゥーロス”=「奴隷」。パウロが自分をキリストの「奴隷」であるとする理由は、彼の人生最大の劇的な回心の体験−ダマスコ途上における十字架と復活のイエスと出会った体験−によるもの。それは使徒言行録に3度記される、イエスがパウロに「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言った記事が有名だが、パウロ自身は自分の回心の体験には一度だけ、当該ガラテヤ書の中で、15節で簡潔に触れているのみである―「しかし、私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子を私に示し」。
▼彼はかつてキリストを否定し、キリストの教会を撲滅しようとした「罪の奴隷」であった。しかしキリストはそのようなパウロをも憐れみ、救いの恵みの中に招き入れた。彼は罪の束縛から解放され、キリストの僕(ドゥーロス)とされる。罪の奴隷からキリストの僕への劇的な変化、それが「イエス・キリストの啓示」である。それ以来彼は、キリストの僕であることを唯一の誇りとして人生を生きた。十字架のイエスとの出会いによって、自分自身ではなくキリストに頼る生き方へ、人の賞賛ではなく神に賞賛される生き方へと変えられたのである。
▼奴隷とは、誰かにあるいは何かに隷属するゆえ、本来そこに自由はない。しかし、キリストの奴隷はいかなる者からも自由であるゆえ、我々はキリストの奴隷に敢えてなるのだ。自由のないはずの奴隷が、実はいかなる不自由からも解放されているという事実を噛み締めたい。
▼「僕」と訳されている語の原語は“ドゥーロス”=「奴隷」。パウロが自分をキリストの「奴隷」であるとする理由は、彼の人生最大の劇的な回心の体験−ダマスコ途上における十字架と復活のイエスと出会った体験−によるもの。それは使徒言行録に3度記される、イエスがパウロに「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言った記事が有名だが、パウロ自身は自分の回心の体験には一度だけ、当該ガラテヤ書の中で、15節で簡潔に触れているのみである―「しかし、私を母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子を私に示し」。
▼彼はかつてキリストを否定し、キリストの教会を撲滅しようとした「罪の奴隷」であった。しかしキリストはそのようなパウロをも憐れみ、救いの恵みの中に招き入れた。彼は罪の束縛から解放され、キリストの僕(ドゥーロス)とされる。罪の奴隷からキリストの僕への劇的な変化、それが「イエス・キリストの啓示」である。それ以来彼は、キリストの僕であることを唯一の誇りとして人生を生きた。十字架のイエスとの出会いによって、自分自身ではなくキリストに頼る生き方へ、人の賞賛ではなく神に賞賛される生き方へと変えられたのである。
▼奴隷とは、誰かにあるいは何かに隷属するゆえ、本来そこに自由はない。しかし、キリストの奴隷はいかなる者からも自由であるゆえ、我々はキリストの奴隷に敢えてなるのだ。自由のないはずの奴隷が、実はいかなる不自由からも解放されているという事実を噛み締めたい。
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投稿日:2018年9月2日() 閲覧回数:479