聖書と共に
かみにたいしてとむ
�競灰螢鵐判�9章6〜15節 「神に対して富む」 2018.9.9
▼エルサレム教会と袂を分かち、異邦人伝道を行なっていたパウロは、信仰理解の違いにもかかわらず、エルサレム教会に献金を送っていた。献金を献げる時の心構えとしてパウロが語るのが、6〜7節の「惜しんでわずかしか蒔かない者は刈り入れもわずか、惜しまず豊かに蒔く人は刈り入れも豊か。不承不承でなく強制されてでもなく、各自が自分で決めたとおりにせよ。喜んで与える人を神は愛してくださるのだ」である。
▼献金は、我々が本来神のものであるものを神に返す行為であり、単にお金を献げるのでなく、イエスの生き方を想起し、イエスに従う者として生きる決意を新たにし、自分自身を献げる行為でもある。「この献げものを主の御用のためにお使い下さい」と言う祈りは、用いられるのはお金だけではなく、我々自身が神の働きのために用いられるように、という祈りである。
▼「give and take」という言葉があるが、我々は生きていく上で、すべてその関係で済ませているわけではない。例えば親子の関係において、親は子に与え続ける「give and give」の愛情しか持たないもの(昨今例外は多いが)。私自身そうだったが、そうして育てられた子どもは、やがて自分が親となった時にも、子どもからの見返りや親孝行など期待せず、子どもに物心両面の愛情を注ぎ続けることだろう。パウロは最後にこう言う―「私たちが惜しまず施す。すると相手は私たちでなく神に感謝するようになる。そして私たちがキリストの福音を宣べ伝えていることを知るようになる。さらには、神を褒め称え、神に祈るようになる」。惜しまず与えること、献金というものが他でもない、福音を証しする宣教の業であると語るのだ。
▼すすんで与える人は、愛においても、友人についても、人の助けにおいても、さらには神に対しても富む者とされる。献金は人の業であると同時に神の恵みであり、すすんで与えようとすることも神の恵みの業である。あなたが誰かに喜んで与え、奉仕をする時、その時その人は、ただあなたに感謝をするだけではない。あなたの為す業がその人の心と思いとを、神に向けさせるのだ。あなたの信仰が言葉だけではなく、実行に移されていることを知るからである。与えられた人は、与えた人のうちに、神を見るのだ。
▼献金は、我々が本来神のものであるものを神に返す行為であり、単にお金を献げるのでなく、イエスの生き方を想起し、イエスに従う者として生きる決意を新たにし、自分自身を献げる行為でもある。「この献げものを主の御用のためにお使い下さい」と言う祈りは、用いられるのはお金だけではなく、我々自身が神の働きのために用いられるように、という祈りである。
▼「give and take」という言葉があるが、我々は生きていく上で、すべてその関係で済ませているわけではない。例えば親子の関係において、親は子に与え続ける「give and give」の愛情しか持たないもの(昨今例外は多いが)。私自身そうだったが、そうして育てられた子どもは、やがて自分が親となった時にも、子どもからの見返りや親孝行など期待せず、子どもに物心両面の愛情を注ぎ続けることだろう。パウロは最後にこう言う―「私たちが惜しまず施す。すると相手は私たちでなく神に感謝するようになる。そして私たちがキリストの福音を宣べ伝えていることを知るようになる。さらには、神を褒め称え、神に祈るようになる」。惜しまず与えること、献金というものが他でもない、福音を証しする宣教の業であると語るのだ。
▼すすんで与える人は、愛においても、友人についても、人の助けにおいても、さらには神に対しても富む者とされる。献金は人の業であると同時に神の恵みであり、すすんで与えようとすることも神の恵みの業である。あなたが誰かに喜んで与え、奉仕をする時、その時その人は、ただあなたに感謝をするだけではない。あなたの為す業がその人の心と思いとを、神に向けさせるのだ。あなたの信仰が言葉だけではなく、実行に移されていることを知るからである。与えられた人は、与えた人のうちに、神を見るのだ。
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投稿日:2018年9月9日() 閲覧回数:1319