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創世記 18章 23〜33節 「赦された喜び」 山田 雅人 2018.5.6

▼ソドムの人々の行いの悪さを耳にした神が、町を滅ぼそうとする。そこでアブラハムが神の前に進み出、「あなたは正しい者と悪い者を一緒くたに町ごと滅ぼされるのですか」と訴える。そう言われて神は「もしソドムに正しい者が50人いたなら、その者たちのために、町全部を赦そう」と約束する。するとさらにアブラハムは「もし45人なら」、「もし40人なら」と交渉し、ついに「正しい者が10人いれば、その10人のために町を滅ぼすことはしない」という神の約束を引き出す。
▼物語の主眼は、神はどこまでも赦す神なのだということと、その神の赦しを願い、執り成そうとする仲介者の存在にある。神がどこまでも赦す神であることは、創世記の原初史に明らかに記される―アダムとエバ物語、カインとアベル物語、ノアの洪水物語、バベルの塔物語…いずれも、神は人間が間違いを認め、神との率直な応答関係に戻ることを期待し、赦す神であることを示している。
▼神は人間の犯した間違いに対して、曖昧にすますことはせず、きっちりと裁く。しかしその裁きは関係を断ち、切り捨てるのではなく、関係を修復しよう、回復しようとして行われる裁きである。「罪」はヘブライ語(ハーター)でもギリシャ語(ハマルティア)でも「的をはずしている」「的外れ」の意。たとえ間違いを犯しても、神と真っ直ぐに向き合う関係に軌道修正すること、的をはずしていない関係に戻ることが大事なのだ。
▼イエスが「まだソドムの方がましだ」と言って、自分が伝道していた町を嘆く場面がある(ルカ10:12)。律法によっても人々が悔い改めず、裁きによっても彼らを本来あるべき姿に変えることが出来ないからこそ、イエスは神が無条件の愛と赦しの神であるという「福音」を宣べ伝えた。我々も無条件に愛され、赦されていることを噛みしめつつ、間違いを犯しても忍耐強く待って下さる神と、常に真っ直ぐに向かい合う関係にとどまる者でありたい。



創世記32章23〜33節 「神を見た人」 山田雅人   2018.9.23

▼双子の兄エサウを騙して長子の特権を得、兄の復讐から逃げて叔父ラバンのもとに身を寄せ20年、ヤコブは故郷に帰る決意をする。冨を築き成功し「故郷に錦を飾る」はずの帰郷が、彼にその喜びはない。兄に殺されるに違いないと思っていたからだ。ヤコブは事前に兄の様子を探る為に使者を派遣するが、エサウが400人を連れてこちらに向かっている事を知り、恐怖に包まれ、神に祈る。
▼この祈りの中で神が現れ、夜明けまでヤコブと格闘するという不思議な出来事が起こる。この経験は、ヤコブの夢の中での祈りの格闘であったのだろう。ヤコブの祈りに神が答えられ、自分の知恵と力に頼るヤコブの腿の間接を外して、ヤコブを無力な者にされたのだ。しかしヤコブがそれだけでは気が済まず、あくまでも神の祝福を求めてしがみつくので、神はそれに答えて、ヤコブに名を変えるように言う。今日の物語を境として、ヤコブは神と出会っていない人から、神と出会った人に変えられたのだ。
▼ヤコブは31節で「わたしは顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と言っているが、「神を見た」と言うのは、文字通り神の顔を見たというよりも、神との実存的な出会いのことを言っているのだろう。それが、「ヤコブ」から「イスラエル」に名前が変わったことの意味である。
▼ヤコブが神と格闘し、名をイスラエルに変えられた―それはヤコブが決して人間的な知恵や力で兄エサウと和解できたのではなくて、信仰によって神とまさに顔を合わせるほどに自分の弱さと向き合うことを通して、兄との和解に至ったことを意味する。ヤコブがこの信仰の戦いを通じて、本当の意味で神を信じ、その祝福に与るべき信仰者になったことを「ぺヌエルでの格闘」物語は説明する。


創世記 9章 8〜17節 「虹を見て想う」 山田雅人 2018.11.11

▼ノアの箱舟の物語で、洪水がひいて箱舟から出てきたノアと神は「もはや二度と洪水を起こして地を滅ぼすようなことはしない」と言って契約を結ぶ。契約のしるしは虹であり、「虹を見るたびに私はその契約を思い起こそう」と神は言う。この契約で重要なのは、「箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」(10節)と言われているとおり、神が人間だけでなくすべての生き物と契約を結んだこと、いわば「全環境的」契約(高柳富夫)である点だ。
▼洪水の水とは、天地創造以前にあった「混沌の水」のこと。神は創造によって、最初は混沌であった水をきちんと分け(1:7「大空の下と大空の上に水を分けさせられた」)、押しとどめ、制御しているのだ。ここに洪水が起こったということは、神が創造された世界が最初にあった混沌に戻った、ということを意味する。ひとたび神が水を押さえつけている手を離し、水を制御することをやめてしまえば、最初にあった混沌の水はいつでも戻ってきて、この世界を無秩序の中に呑み込んでしまう。ノアの洪水とはそういう出来事なのだと著者は語るのだ。
▼混沌という悪は神の創造によって無にされたわけではなく、神によって制御されている―つまり創造の業は今でも続いているということである。天地創造は遠い過去の1回限りの出来事ではなく、今に至るまで神が創造活動を継続しているからこそ、この世は混沌の水に呑まれることなく維持されている。この思想は、この世の全ては神の被造物にすぎず、最初から自主自律的な存在ではないのだ、という「創造信仰」の考え方である。
▼我々の人生における雨の時、洪水の時には、虹を見て思い出したいと思う。我々が他者に対して、全ての命に対して誠実であり、慈しみに溢れ、そして神を知ることによって、我々の人生における雨は必ず上がり、洪水は必ずおさまるのだということを。そして、神がこれは永遠の契約だと言われたことを信じて歩む者でありたい。
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